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- >働きウーマンインタビュー 菅原ゆうこさん(vol.2)
笑顔がとてもステキな菅原ゆうこさん。たくさんの人を前にしてイキイキと話しをする姿が印象的でした。そんな、楽しそうに仕事をしている菅原さんに仕事を続ける秘訣などを伺いました。
自分の中ではアナウンサーへの道ができていたのだと思う
小さな頃から「言葉の持つ音」が好きだったという菅原さん。アナウンサーに興味を持ち始めたのは中学生の頃ということですが。
「テレビで報道特集を見て、とても難しい内容をわかりやすく、しかもテーマに興味のない人にも伝えているなんてスゴイと思ったことがきっかけです。でも、しばらくは縁のない世界だと思っていました。それが大学生の時、DJをしていた知人の姿に刺激を受けて、やはりテレビ局への就職にチャレンジしようと思ったのです。」
早速、就職活動に取り組み始めた菅原さん。大学で見つけたのが「山形テレビ」の求人票でした。その日が募集の締切日ということもあり「慌てて山形テレビに電話を入れました。『書類を持参したいのですが』と。」幼いころからのアナウンサーへの思いが強い原動力になったのでしょうか。競争率の高い難関試験にもかかわらず、菅原さんは合格。約4年に亘り山形テレビアナウンス部で働くことになったのです。
『伝える力』を磨きたい!
難関を突破した菅原さんにとっての「やりたかった仕事」。菅原さんご自身は、アナウンサーというお仕事にどのような思いを抱いていらっしゃるのでしょうか?
「この仕事は『単に読めばいい』というものではありません。自分が伝えたことによって、それを聞いた誰かが勉強になったり元気になったりする・・・それは素晴らしいことです。でも出来事のうわべだけを単に話しても伝わらないと思っています。だからこそもっと『伝える力』を磨きたかった。例えば記者。記者としての『視点』を持ち、出来事の内容や背景を充分に知ったうえで、アナウンサーとしてそれを伝えることができれば、もっと『深い話』ができるのではないかと思うのです。だからこそ私はアナウンサーとして本当に必要な何かを学ばずにいるのではないか?と不安に感じることがよくありました。」
結局、記者としての経験をすることはできなかったそうですが、菅原さんは常に『伝える力』のスキルアップを頭に置いてアナウンサーとしての経験を積んだといいます。
ご主人の転勤で週末婚に
27歳で結婚。退職してご主人のいる仙台へと移った菅原さんは、仙台でもアナウンサーとしての仕事を続けます。しかし、その後2年でご主人が東京に転勤。菅原さんはそこで大きな選択を迫られることになります。
「丁度、それまでのレギュラーの他にも新しく番組の司会を担当する話が持ち上がっていて、『一緒に東京に行こうか、どうしよう?』と悩みました。子どもも欲しかったですし。でも、せっかく『菅原、やってくれないか』と声を掛けてもらった仕事でしたし、ここで仕事を辞めるのは中途半端だと考え、主人と話し合い、私は仙台に残ることにしました。私がレギュラーで担当していたのは月曜から木曜までだったので、お引き受けする仕事は出来るだけ平日に集中させ、金・土・日を東京で過ごす『週末婚』の道を選びました。」
一時期はドラマでも取り上げられ、新しい夫婦の形として話題となった「週末婚」。実際のところ、大変な点などはなかったのでしょうか?
「週末はできる限り夫婦で会話をしよう、と食事に出かけたりして一緒の時間を過ごしました。また、この間に夫婦それぞれが『独立した自分の時間の過ごし方』を学ぶことができました。東京に引っ越すと仕事がメインの生活ではなくなるので少し勉強しようと思い、週末婚をしながら東京の声優学校にも通い始めました。」
やはり週末婚には夫婦がお互いに歩み寄ることと、そのための努力が大切になってくるようです。
おナカの大きな大学生
週末婚はどれくらい続いたのでしょうか。
「1年半ですね。担当番組の区切りもつき、引継ぎなども一段落したので。そして、小さな頃からの興味対象である『言葉の持つ音』や、伝える力を磨くために『言葉の持つ力』を学びたいと、早稲田大学第二文学部に入学しました。仕事から離れた今の環境で、何かできることがないかしら、と思ったところに大学の話があり、勉強をしたかったので受験しました。貧乏性なんですよ、私。いつも『今の環境でできることは何だろう』と考えてしまうのです。」
大学では文学、音声学や音韻論を中心とした言語学の勉強に取り組まれたそうです。そして、妊娠。
菅原さんはお子様がお腹にいる状態で授業に出席。陣痛と戦いながらレポート作成をし、ちょうど春休み直前、学校を休むこともなく出産。出産後も、大学内に新しく設立された地域開放型の保育所に子どもを預けて授業に出席、休み時間は授乳のために保育所へ、また授業に出席・・・という生活を続けたそうです。一番子育てが忙しい乳児期の子どもを抱える母でありながらも言語学を学ぶ学生として勉学に励むというハードな毎日をこなされた菅原さん。おそらく、全国を探してもこのような「学生」はなかなかいないのではないでしょうか。
この時、再びご主人が仙台に転勤。
「私の大学生活が残っていることを知っていた主人は『先に僕がひとりでいくよ。卒業してから来たらいい。』と言ってくれました。私は娘と2人で東京に残って大学を卒業しました。この期間の勉強は、主人の協力があってこそできたことです。」
40歳までに人生の方向性を決めたい
仙台に戻り再び仕事に復帰された菅原さん。仙台に戻って仕事を再開するのにご苦労はありませんでしたか?
「仕事にブランクもあるので『ゆっくりと仕事を開始しよう』と思っていたところ、『仙台に戻ってきているなら一緒に仕事をしよう』とかつての仕事仲間達が声を掛けてくれました。本当に名前を思い出してもらってありがたかったです。ですから、すぐに仕事の世界に戻りました。歳も重ねてきましたが長く続けられて幸せです。」
そう話す菅原さん。大学での勉強など陰で努力していたことや日々向上しようとする姿勢などが身を結び、アナウンサーとしての高い評価を受けていたからこそではないでしょうか。
では、いま現在、目標にしていることはありますか?
「いままでの仕事に限らず『40歳までに何か自分の人生の方向性を決めたい』と考えています。何らかの、自分の人生における大きな柱を築きたいと思っています。それが学問なのか、趣味なのか何かはまだわからないのですが、誰かの成長に役立つことをしていきたいのです。特に今から世の中に出て光輝こうとしている若い人たちを見ていると、何か成長に手を貸してあげられることが自分にもできないかしら、と思います。彼らをハッピーにすることができたら、自分もハッピーになれると思うんです。」
何がしんどくて何が苦労なのかわからないくらい好きな仕事
仕事を辞めようと思ったことも何度もあるそうですが、ここまで続けられた理由はなんでしょうか。
「とにかくこの仕事が好きだったのだと思います。もともと低血圧と貧血で体力がなく、辞めようと思ったことは何度もありましたが、なんとかして体力をつけようと努力しました。また、家族と両親が私を支えてくれたから。この支えには本当に感謝しています。」
「好きなことを仕事にできる、それは幸せなことです。でも失敗したときの自己嫌悪や自分に対する不甲斐なさはさらに大きいです。結局頭の中は毎日仕事がらみのことですね。でも、好きな仕事だから、何がしんどいのか、何が苦労なのかわからないんです。」
最後に読者のみなさんにメッセージをお願いいたします。
「常にチャンスは山のようにあるのです。周りの人を気にするのではなく、『私自身は私自身』、私はいまこの環境の中で何ができるのだろう、できることは何だろうと考えていくと、何か見えてくるものがあると思います。」
すがわらゆうこさん Profile
1969年生まれ。石巻生まれの仙台育ち。山形テレビに勤務したあと独立。フリーアナウンサーとして、テレビ番組やラジオ番組の司会、レポート、ナレーション、CMやVP(VisualPresentation)等のナレーション、各種イベントの司会で活躍中。ご主人の転勤で「週末婚」をしながら仕事を続けたこともあり、また30歳を過ぎてから二度目の大学生活を早稲田大学第二文学部で送るなどの行動派。
ちょこっとコラム
社会人が大学入学をする場合、一般の入試を受験することはもちろん、「社会人特別選抜」と呼ばれる社会人向けの入試制度を実施している大学も多くあります。「社会人」の定義は「企業・官公庁などで○年以上勤務経験がある」、「高校卒業後○年以上経過」など各大学によって違い、たいていの大学では小論文や面接を中心とする学科試験が軽減された試験が課されます。
また、夜間に講座を開設する大学や、実際に登校するのは年に数回の通信制大学(これらの大学でも社会人の特別試験が設定されている所もあります)もあり、「何を学ぶか」ということが大学選びの大前提ですが、それ以外にも自分のライフスタイルに合わせた大学選びもできるような環境になってきています。
近年、18歳以下人口の減少が大学入学者の減少に繋がるという懸念があるため、社会人入試向けの特別な枠を設けるなど、社会人学生の獲得に力を入れる大学も多いようです。

